『第九 An die Freude(歓喜の歌)』へのつぶやき (No.2) ♬ 「第九」歌い始めは50年前の新婚時代: 2020.12.19
O Freunde おお フロイデ ! 『おお 友よ』
バリトンのソロで始まるベートーヴェン作曲 第九交響曲 第4楽章。
思わず体が振るえてくる。
もう50年近く前になるかな。初めて「第九」を歌ったのは・・・・・
新婚の頃であった。(27歳)
昔(今もあると思うが?)各地に「労音」という名で色んな歌手やグループの公演があり、会社の有志で仲間を作り、チケットを買い楽しみにしていた頃である。
この「労音」の呼びかけで『第九を歌おうじゃないか』との話が盛り上がり、自分も高校時代や会社で「合唱(コーラス)」を愛好していた関係で参加を決めた訳であった。
当時は、コーラスブームというか、会社の職場や高校に「合唱部」が沢山誕生し、アマチュアコーラスグループも幾つかあった。元来「岡崎」という地はコーラスが盛んであり、合唱連盟祭や会社グループのジョイントコンサートやアマチュアコーラスのコンサートも頻繁に行われていた。そういう私も会社で混声合唱部を立ち上げた。男声部員が少なく、岡崎や知立に住んでいる友人の助けをかりて活動していた。
※岡崎合唱連盟の理事として、知人の会長(高等学校の先生)を助けて運営していた。
私は岡崎市に住み学校も会社も岡崎である。
今岡崎は「ジャズの街」として宣伝しているが、ジャズなんて一部の方の発想で始まり歴史や知名度も低い。
岡崎は「コーラスの街」の方が伝統も永く市民に行き渡っていると思うが、行政の考えには疑問が湧いてくる。
話を本筋に戻すと
「労音」第九に2年間参加した。練習場所も少なく、高校の校舎やお寺の講堂などを間借りしたりして行った。
指揮者は、僕の憶えでは、石丸寛、福村芳一の二人の指揮者のもとで歌った。
福村芳一さんはその頃売出し中の若手指揮者であり、練習会場へ細いスラックスに派手な服、そしてサングラスをして登場してきた姿を見て、田舎者はびっくりしたものだった。
演奏は、数年前に新しく設立されたばかりの名古屋フィルファーモニーオーケストラ。
ゲネプロに名古屋まで行ったこともあった。
兎に角、その頃は「第九を歌う会」なんて全国的にも殆どなかった時代である。
合唱指導は、愛知県でも有名であった水谷昌平先生。先生は当時から太り気味ではあったが、とってもエネルギッシュに指導していただいた。エネルギッシュといえば聞こえは良いが、“おせいじ”にも音楽的・合唱的にセンスがあると言えない田舎者の集団をコンサートまで引き連れていくには、ご苦労されたと想像できる。映画ではドイツ語(ヒットラーのドキュメントなど)を聞いたことはあるが、それを覚えて発声するなんて、全く思いもつかないほど困ってしまった。寝ても覚めても頭の中は、五ドイツ語を覚えるため必死であった。
その詩の内容がどんな意味だったなんて考えもせず、兎に角音取りとドイツ語を覚えるのに必死であった。
そして、コンサート開催日の二週間前位に漸くシラーの詩とベートーヴェンの思いを自分なりに想像し第九の世界を描いて歌えようになった。
新婚であったので、二重の喜びであった。
将に『歓喜の歌』!!
「労音」主催の『第九コンサート』は残念ながら、以降開催されることなく、10年の歳月が経ってしまった